屁理屈メンヘラババアの戯言

精神疾患かメンヘラか怠け者か。

理屈じゃわかっているんだが

ああああ得体の知れない悲しみなのか孤独なのか虚しさなのか

よくわからんものに押しつぶされてしまいそうだ

自分の気分の抑揚にひどく疲れる、、、

でも生きてきてやっと気づけた事があるんだけど

孤独イコール悲しい

ではないんだな。

一人でいることも独りだということも

世間はそれを悲しい事のように決めつけているけど

ホントはそんなのイコールで繋がるものじゃないんだよな。

わかってからスッキリしたわけでもないけど

これを事あるごとに口にしていると

自分でも少し強がりに感じるこの解釈が

言霊的なアレで自然と身につくんだよ。

あ、あと書こうと思ってたこと

翻弄と刺激を混合させるなという話。

刺激を受けるうえで

自分自身に芯がなくちゃ

よっぽど神がかった衝撃を受けない限り、それはただ自分を一時的に揺るがすだけの

翻弄でしかない!って持論。

自分が変わりたいとか成長したいと思うなら

柔軟な思考も持ち合わせたうえで

しっかり自分の軸をかまえてなくては刺激が無意味になってしまうなと

2016年の下半期に身をもって実感したのです。

 

おや、話ずれた

話がずれたから気持ちも楽になった。

楽になったけど根本が解決してないのでまた繰り返すパターン。

毎日こんな感じ。

でも理論じゃないからいつも悩まされるんだ。

理性と本能がかけ離れすぎているなーほんと、、、

 

 

これちょっと自分でも何言ってるかわからない

今日精神科に行ったのだけど
全くもってお門違いな事を話をされてしばらくイライラしてしまった。
私がカウンセリングを受ける理由は
何かにすがりたいわけでも助けてほしいわけでもない
ただ自分の考えや価値観について
プロとしての見解がほしいだけだ。
十人十色でそれが良い事だってわかってる。
人が人に正解や間違いを指摘すべきではない事もわかっている。
私は私の日々考えている理屈の数々を
事細かに伝えてそれを全て解釈したうえで
専門家からの点数がほしいだけだ。
この性格を直したいなんて微塵も思わないし
一般的なアドバイスなんてサラサラ聞く気もない。
評価を頂いて自信につなげたり
課題にしたりしたいのに
あなたは協調性があるんだから社会とうまくやっていけるはずだなんて
そんなん知ってるわ。
そして自分の伝達能力の乏しさにもガッカリする。

わかる人にはわかる

ちょっと前まで
わかってる風というか
ツウな感じがカッコイイと思ってて
色々な音楽や映画を観て
世にいう
わかるひとにはわかる物を好きだという自分に自己陶酔していたけど
最近その感覚が丸くなって
自分が本当に好きなものと
理論的に素晴らしいといわれるものと
素直にいい感じのものを
ちゃんとわけれるようになった

ダサいけど本能的に好きだと認められるようになった
これは私の中で大きな進歩だと思う。

ツウぶりたいが為に開拓しまくった見栄が
いい方向に行ってくれてよかった。
自分がどういったものが好きかがハッキリしたし
そのおかげで好みの曲や映画が見つけやすくなった。

すごく良い事。

陰と陽

陰な人と陽な人がいる。
もちろん誰にだって二面性は持ち合わせているのだけど。
私はというと
物心ついた頃から何にしても陰を選択していて
アングラが落ち着くし
ユートピアディストピアだったら
ディストピアだし
ワイワイするよりしっぽりしたいし
陽とは何かと縁はなかった。
選択してこなかった。
本質的な事だと思っているけど
陽で生きる人に憧れは常に抱いていて
できるなら青空の下で瓶ビール片手に
みんなとパーティーしてみたいなと感じることもある。
それでもあえてそれを選択しないのは
その瞬間の楽しさより
その先それを失う事の恐怖が上回っているからなんだと思う。
私の教科書の中には
先の事は先の私が考える事だとあるが
なにより失望が怖い
最初からなかった事にしたい
あった物がなくなるのは怖い
実際は抜歯のような物だとわかっている。
抜いた時は何か物足りない気分になるが
時がたつに連れて慣れてきて
生えてた頃なんて忘れて日常を送れるようになるんだということも。

融合

〇〇みたいで可愛いとか
〇〇みたいで不気味とか
なにかを連想させる癖が人にはあるのかな
このネイル、お菓子みたいで可愛いなら
お菓子見てたら良いじゃんとか思うのだけど
あえてそれをネイルにする事で
可愛さ増し増しになるのなんで?
あの木、人間の顔に見えるから不気味ってのも
ただ人間っぽい木だっただけで人間自体は不気味じゃないのに
木が人間っぽくなったら不気味になるのなんで?
みたいな物の方が目にとまるような心理があるのかな。
本来そうでないものがそうである事が
新鮮なのかな。
あーそっか新鮮さか。
カフェ風の家とか家風のカフェとか
人間は見慣れていないものに自然と目がいくようになるのか
もう少し細かくいうと
単体としては見慣れているが
組み合わせ的に非現実なものが一つになった時に
目新しさを覚えるんだな。

人といると疲れてしまうのは神経を使い過ぎてるせいなのだろう
ナチュラルに人と接する事ができないのは
自分の自信のなさとただカッコつけたいだけのつまらない感情に
振り回されているだけなのだが。
なにも変わらない。昔から。
そして時が過ぎる中で変わらないというのは後退してる事と同じだ。

そして今なんとなく気づいたのだけど
承認欲求が満たされずにもがいている中で
ただ認めてほしいとかそんな感情はあっても
誰かに必要とされたいと思う事はないんだな。
これはどういう事なんだろう。
そういうのってわりと連動している物だと思ってた。

 

些細な事

朝起きてどんなに虚しくても
なんとなく見上げた空がキレイだったり
風が穏やかだと
生きててよかったのかもと染み染み思う日もある。
昨日久しぶりに乗ったバスから見た景色が
どことなく情緒を感じさせて
枯れ木に紛れる青々とした葉や紅葉した葉をつけた木々達の
グラデーションをバスのゆったりした速度で眺めると
心が救われたような気がした。
些細な事だが
その時に感じた気持ちは
私にとってかけがえのないものなので
こうやって字に起こして形に残す事はとても大事だ。

いっとき不動産関係の会社に専属のデザイナーとして
席を作り秒刻みのめまぐるしい日々を送っていた。
仕事面でみたら充実していたし
時間を持て余して憂鬱な気分になる事もなかった。
社会人らしかった。
いろんな人と関わって
人間関係で悩んだり楽しい気持ちになったり
大人らしかった。
前回行ったカウンセリングで
わたしは先生にこう言った。
会社があまりにも充実していて
自分の事を考える暇もなかった。
今一人の時間がたくさんできた事で
反動が生まれ虚無感に襲われているのだろうと。
でも今冷静に考えると
わたしにはこうして自分の存在意義や
自分の性格、今後の生き方について
向き合う時間が必要なのだ。
ポジティブとネガティブを繰り返して
わかりきったシンプルな答えを
わざわざ遠回りしながら導くこの過程が大事だ。